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カテゴリ:東日本大震災

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NHKスペシャル「原発メルトダウン危機の88時間」を見た。

ホントに菅(当時総理)には腹が立った。
体よく現場視察とはいうものの、現場がメルトダウン直前の緊迫&激務の状態だというのに強引に視察とは。全くもって話にならねえ。何を考えてるのか。

東電本店の背広組も現場主導を尊重せず、図面やマニュアル上の指示を迫る。
「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」
聞いたことのある映画のワンフレーズのようなことが現実に起こっていた。

やはりあれだけの災害に対しての安全対策が不十分だったとしか言いようがない。
あの手この手も封じられ、具体的には何の改善にもならない。
原発なんか何があっても想定外じゃダメなんだって。

実際は東日本に人が住めなくなるくらい1歩手前の事故だったらしい。
今更だけど、マジではらわた煮え繰り返るくらい腹が立つ。
やっぱ日本はエネルギー政策を改める時期なのだ。
原子力は人間に扱える代物ではない。

「3.11キヲクのキロク」公開サロン

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IMG_4545「3.11キヲクのキロク」公開サロン
atせんだいメディアテーク

「3.11オモイデツアー ふりかえり公開ミーティング」
「3.11以前のキロクから3.11以降を考える」
「3.12はじまりのごはん」
「草アーカイブ アーカイブは誰のもの?」

という4部構成で行われたミーティングのうち「3.11以前のキロクから3.11以降を考える」と「3.12はじまりのごはん」に参加してきた。
参加した…と言ってもオープンスクエアなので誰でも自由雨に見聞きできるのだがw


「3.11以前のキロクから3.11以降を考える」
結局、震災前〜震災後という流れは、東日本大震災を境にビフォーアフターになってしまっているが、震災以降の流れ…要するに復興の方向性や指針は震災前のその地に住む人々の暮らしの様子がわからなければ正しいアフターにはなりづらい。
それゆえ、その地域のビフォーをその地域のキロクから読み出していきましょう…という話。

「3.12はじまりのごはん」
震災の衝撃的な写真や映像によるキヲクのキロクは、中には未だに切り出せない人もいる。
特に子供たちには厳しい面があるのでは。
ということで「食べる」という切り口であれば、多少は話もできるのかな…ってことで始まったキロク。

「震災後3月12日に初めて食べたごはんはなんですか?」
当時の食に関する写真やエピソードをアーカイブしていく企画。
なかなかな試みで、仙台で始まったこのイベントが今や日本全国あちこちで似たようなイベントとして開催されてるらしい。
先日ミヤギテレビでもTV版としてローカル放送されたのをきっかけに日テレキー局での全国版も放送された。

会場では写真を提供してくれた本人からのコメントを直接発表してもらうので、リアルな体験談としてなかなかの話が聞けるのがいい。
同じ被災地とはいえ被災の規模や土地柄、家族構成、生活パターンが違うので、その内容はある意味今でも新鮮な感じがする。

以前から何回も言っているが、震災の記憶は風化する。
被災地だと毎日毎日新聞やニュースで震災関連の報道をやってるので、他の地域からすれば風化の進行は遅いのだろうが、それでも当時の感情は薄れてきている。
それが心身ともに平穏に向かっていることなのだろうが、しかし被災地に住むもの、震災を間近で経験した者として、後世や被災地外に語り継ぐ義務はあるような気がする。
であるならば、こういうイベントのように時には震災を見直したり考えたりする機会はあって然るべしなのだろうと思う。


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震災から5年目の節目を迎え、被災地の今日はあちこちでいろんな行事があって、人それぞれが思いにはせ、亡くなった命を追悼した。

自宅の隣の幼稚園では子供達が普通に登園してワーワーキャーキャーはしゃぐいつもの朝。
この子達はあの震災を知らない子なんだ。
5年という月日は長いようで短い。
…なんか複雑。

TVやラジオでは震災関連の特番。
新聞もかなりのページを割いてこの5年の被災地の様子を伝えてる。
被災した地域に住んでるとは言っても知らない話題や知らない取り組みも沢山ある。
みんな必死になって前に進もうと頑張ってる。
あの記憶を風化させないようにと写真や映像・語録を残す。
後世に震災や津波の恐ろしさを忘れないようにと被災した建物を保存する動き。
あの忌まわしい出来事を早く忘れてしまいたい、被災の現場を見たくない離れたい。

そんな5年目の出来事を見聞きするのしたがって、とにかくいろんなことを考えてしまう。
悔しさもある。
情けなさもある。
悲しさと不安もある。

おそらく10年20年経ってもこの気持ちは変わらないだろうな。
復興するにしたがって風化はするだろうが、3月11日が巡ってくる度に鮮明に思い出されてしまうから。


石巻

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0220110405宮城県石巻市。
宮城県では仙台に次ぐNO.2の都市ながら、東日本大震災では甚大な被害を受けて被災三県の内、最も死者行方不明者が多かった自治体だ。
震災から4年5ヵ月経ったけど、大勢では復興道半ばまでも行ってない。
日和山から見下ろす被災地の様子を見てると、以前の町並みに戻るのはずーっとずーっと先のような気がする。

先日、横浜に行ってきたせいか、妄想が広がる。
大きな北上川があって水運が開けて、大きな港があって、南三陸の素晴らしい自然があって・・・
どうして石巻は横浜や神戸にならなかったのか?…って。
横浜だって神戸だって江戸時代は寂れた漁村だった。
幕末になってそこそこ手入れするようになって人が住み始め外国人がやって来て少しずつモダンになって、今では世界でも有数の港町だ。

なんで石巻は“石巻”なのか。

震災前から人口流出や商店街・アーケード街が廃れてしまってるって問題はあった。
漫画だけで町興しやっていけんのか?…って。
震災で流れてしまった広大な空き地の利用はどう考えているのか?

変な話、横浜を目指すのもアリかなって思う。
復興は復元ではない。
当然これまで暮らしていた人達の思惑はあるだろうが、大規模な都市開発によって飛躍的な発展を目指してもいのではないか。
極端な話、石巻にディズニーランド持ってくるとかUSJ持ってくるとか、そういう核になるような施設をベースに大胆なまちづくりがあってもいいと思う。
やり方によっては仙台以上の都市になり得るはずだ。

ハッキリ言って今のままでは石巻に行くモチベーションが全く無い。
仙台市民・宮城県民自ら石巻に行きたい・行きたくなるような、強いては県外からの観光も誘致できるような施設・まちづくりに期待したい。



宮城県民防災の日

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mm8-45-1今日6月12日は「1978年宮城県沖地震」から37年目。
あれから37年経ったのかぁ…。
あんなデカイ地震は生まれて初めて経験したので、当時は「マジ死ぬ!」と思ったっけな(^^;
この時は建物やブロック塀が多く倒壊し下敷きになって犠牲になった人も多かった。

その反省と対策のお陰か、宮城県は日本でも先進の地震対策の進んだ県になった。
東日本大震災はM7.4の1987宮城県沖地震よりも大きい日本観測史上最大のM9.0を記録した大地震。
当然、市内はほとんどの建物が倒壊し大変な事になってるはず…と思ってビルの外に出てみると、歩道も車道も人で溢れかえっていたけど、建物自体の倒壊はほとんどない。
外壁が崩れたとかガラスが割れたとか、比較的軽微な被害だった。
変な話、阪神大震災クラスの被害は出るものだと思っていただけに“あっけ”に取られてしまった(^^;

宮城県沖地震以降、建物の免震・耐震化はどんどん進み、地震による直接被害は大幅に少なくなったようだ。

いわゆる“宮城県沖地震”って平均すると37.1年周期で回ってくるらしい。
その37年目は今年である。
なにが起きてもおかしくない年代に再び入ってしまったようだ。
しかも“魔の6月”だし(-_-;

明日、ガソリン満タンにしとこ。

伝える学校の発表会

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今日の午後2時46分は自宅にいた。
震災から4年目の黙祷は、カミさんとサッチとワタシの3人で冥福を祈った。
これまでなんだかんだ震災関連のイベントに出席したり津波の被災地に赴いたりしてたので、“3.11/PM2:46”に家に居たことはなかった。

IMG_3257平成26年度仙台市震災メモリアル市民協働プロジェクト
「伝える学校の発表会」
at仙台市市民活動サポートセンターB1

夕方からはサポセンで「3.11キヲクのキロク」公開サロンに出席。
“あの時”の写真を元に当時の体験や生活の模様をオープン参加の来場者と語り合う。

IMG_3253みんなやっぱり良いも悪いもかけがえのない経験をしてきたんだな…って改めて思うわ。
同じ日同じ時間にあの未曾有の震災を経験したせいか、他人の経験だけど自分のことのように全く共感できる。
写真や映像を見てても、その撮影者の意図するところ伝えたいところが100%とは言わないが理解はできてると思う。

被災してない人たちにもこの経験は上手く伝わるのだろうか…?
他人ごととして捉えられたりはしないだろうか?
ふとそんなことを思ったり・・・

うん、やっぱりアーカイブすることは大事だ。
今この世に生かされた人達はそれを後世の子どもたちにしっかりと伝えていく義務がある。

史上最大の救出

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NHK「史上最大の救出」を見て。
“あの時”全国から集った救助隊によるナマの映像と隊員たちの証言を元に編集されたドキュメンタリー番組。
正直言ってこういう番組は見るのが辛い。
辛いけど、ありがたい…という変な矛盾だ。

嫌な記憶や経験は忘れてしまおうという人間本来の性なんだろうか、被災地に住んでる人間だとか震災経験者だといっても、4年経つとやっぱあの恐怖感だったり不自由だった震災後の生活のことは薄らいだ記憶になってしまってる。

反対に、あの経験を忘れてはいけないという被災地に住む人間の“義務”みたいなもんもあって、定期的にこういう番組を企画してもらえることに感謝するという気持ちもある。

当時、人命救助もさることながらライフライン復旧・建築物の調査など様々なシステムの復旧のために全国からたくさんの人間が被災地に入ってくれた。

IMG_0133妹のダンナは神奈川の箱根消防署勤務。
職業が職業だけに多分にもれず出張って来てくれた。
震災後、数日して幸町のみやぎ生協に買い出しに行った時に偶然出会った。
立ち止まっての再会って訳にはいかなかったが「箱根町消防署」の文字に思わず手を合わせてしまうくらい感動したものだ。

番組の中で救助にあたった隊員たちは、もっとこうすれば多くの人達を救えたんではないか、早く到着できればあの方は亡くならないで済んだのではないか…。
そういう自戒の念に囚われて、今後の救助活動の反省点として新しいシステムの構築に励んでる隊員もいた。
多くの犠牲の上に新しいことが為されていくのも皮肉なもんだが、何も無いところからは新しいものはなかなか出てこないものだ。

“わざわざ遠くから救助に来てくれて助かった命”を感動的ドキュメンタリーとして受取るだけではいかん。
被災したという自虐観念にかられず、逆に被災したことを新たなスタートとしてこの番組を見れたらいいのではないか。

津波タワー

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P2155394仙台市宮城野区中野「津波タワー」完成。
昨日2/14に地元町内会・関係者・報道を集めて公開された。
仙台港あたりってホント平地なんだよね。
なので実際に震災翌日に見たあの惨状はリアルな街並みだとは信じられないくらいの悲惨さだった。
高い所って言ったら大きな倉庫の上のフロアとか、郊外型ショッピングゾーンの2階以上とか。
震災ん時の10mオーバー津波が来て助かる所はパッと見キリンビール工場とか夢メッセの屋上、アウトレットの観覧車の上とか・・・
東日本大震災を教訓に、仙台市が宮城野区中野5丁目に建設した津波避難タワーが14日、地元住民に公開された。市が沿岸部で計画する6カ所の避難タワーのうち、最初に完成した。
 鉄骨製で高さ9.9メートル。高さ6.6メートルの2階部分には屋内スペース(100平方メートル)があり、トイレなどの設備を整えた。屋上と合わせて約300人が約24時間避難できるように毛布や非常食、防災行政無線を置く。建設費約2億3000万円は全額国費で賄う。
 奥山恵美子仙台市長は「避難訓練などソフト面も充実させて緊急時に備えたい」と話した。
2/15河北新報朝刊より
将来的には沿岸地域に13基の津波タワーを予定しているという。

あの教訓から学んだことは、先ずとにかく逃げて生き延びること。
もう「想定外だった」では済まされないのだ。



オモイデピース

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PC205172クラウドファウンディングサービス「READY FOR?」を利用して今年の6月から募集を開始したプロジェクト「震災以前と今を対比した写真集『オモイデ ピース』を作り全国へ」が全国の出資者による目標金額が達成して、本格的に製作が始まったのが8月。
微力ながらオラも出資させて頂いて、ようやっとその「オモイデピース」が完成して今日手元に届いた。

なんちゅうか・・・
震災後、オレらが体験した東日本大震災を市民目線で撮影・アーカイブした「3.11キヲクのキロク」やその続編の「3.11キヲクのキロク そしてイマ。」を企画をしてきた編集者・デザイナーや協力してきた知人たちとも交流があって、彼らの震災後の活動やアーカイブの形や想いも見聞きしてきたせいか、こうやってこの成果物を手に取るとジワジワとこみ上げてくるものがある。
PC205176しかも本の構成が、今や記憶の中にしか存在しない震災前の風景が写真とともに蘇って来、失われた街並み(原野)の写真も対比されてる内容が、なんとも物哀しさを感じさせる。

恐らく、失われた街並みは以前のように街を構成されることはなく、何百年と続いたその記憶はそこで途切れるのだろう。
けど、こうやって経験して来たことを留めておくことは、オレらが今感じてる哀しさと同時に後年の人々にも時代を越えて共有するということだ。

「オモイデピース」は被災地に住んでなかった人たちや震災を経験しなかった人たちには、この街で人々がどういう生活をしていたのか、どういう街並みだったのかを知る手掛かりにもなる。
機会があれば、この本を片手にかつての街を訪れてみてもらいたいものだ。

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昨日は青森県八戸に行ってきた。
やっぱ北国は寒いっちゃね{((~_~;))}
そんなに気温は低くなくても、ちょっと風が吹くとメッチャ寒い。
折しも低気圧の影響で、雨から雪の天気。
帰りの高速道路は二戸から松尾八幡平までは圧雪&猛吹雪で前がほとんど見えん(><;)
前後に走ってるクルマもなく雪道にはタイヤの跡がないためどこを走ってるかも判らん。
よくもまぁ無事に帰ってこれたもんだと感心するw

一晩明けて今日は福島県いわき市まで。
12月6日に開通した常磐自動車道を走ってみた。
浪江から先は未開通のため国道6号線等を経由して、常磐富岡からいわきまでは再び常磐道を利用する。

意外と早い。
仙台東から乗って途中休憩入れても1時間で浪江近辺まで達した。

浪江ICを降りて浪江の街中を一般道を利用する。
雑草、枯れすすき、朽ちた庭木や軒、割れたショーウィンドー・・・

想像はしていたがまさしくゴーストタウンだ。
各家の入口にはバリケードが張られ、進入禁止や規制された道路には警備員が付く。
パトカーが異様に多い。
除染で出た黒い袋に入れられた放射線廃棄物の山。
林立する“除染作業中”のノボリ。

クルマの窓はできるだけ開けない。
エアコンは内気循環。
オートバイや自転車の通行は禁止。
注意喚起の立て看板が目立つ。

クルマの中にいても気分的に目がしょぼしょぼになったり、無意識に空咳したり息を止めたり。
口数も少なくなってついには無口になる。
オレらの暮らしてる世界とは全く違う世界。
何度か見て記憶に残ってるチェルノブイリの写真とリンクする風景だ。

仕事が終わって暗くなってからいわきを出た。来る時と同じルート。
当然、人気のない街には灯りは見当たらず、ヘッドライト意外の灯りはほとんど無い。
遠くパトカーの回転灯や警備員の持ってる誘導灯の赤が揺らめく。

無理にでもいろいろ考えてしまう。答えは出ないし考えもまとまらない。
やるせない気持ちだけがもんもんとヘッドライトに照らされる。

うつくしまふくしま・・・

と思ってる間に、仙台東IC到着。
2日間の走行距離1,000kmオーバー。
自宅から岡山城まで走ったことになるw

いやはや、手ぇ肩背中が痛い。
目もヒリヒリする。

風呂入ってゆっくりしよ♪


忘れないように

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IMG_0045たまにYouTubeなんかで「3.11」の映像を見る。
あの時を忘れないために。
見ているとカーッ…とカラダが熱くなる。
知らないうちに眉間にシワが寄っている。
あの時経験したとんでもなく長く感じた数分間の揺れが蘇ってくる。

東日本大震災から3年5ヵ月経った。
被災地の地元新聞には震災関連のページがある。
死者行方不明者の更新や捜索の行方。
復興に関する事業や市民の動き・イベント。
被災の責任問題に関する訴訟 etc…

震災関連のページ以外にも“震災”とか“復興”の文字が必ずある。
ローカル局のニュースでも同じように連日震災関連の話題は必ず読まれる。
故に根本的には我々被災地の人間は「震災を忘れる」ことはまずありえない。

それでもやっぱりあの時受けた恐怖や絶望感は今は殆ど無い。
映像を見て「あぁ…そうだったな」って思い出すレベル。
無論、当時のままの恐怖感を抱いたまま今に至るのは物凄く辛いし、精神を病んでる可能性だってある。人間やっぱり笑っていたいものだ。

戦争でもそう。
震災でもそう。
受けた心の傷の修復は長い年月が掛かるだろうけど、本能的に心の置き場所は平穏になっていくような気がする。
穏やかになりつつもつらい経験も忘れたい過去も記憶に留めておかねばならない。
家族を含め自分に対する防災の戒めでもあるし、地域社会の未来のためでもある。

是非これらの映像や震災関連を記録した書籍は直接的に被災してない他地域や海外の人に見て読んで欲しいものだ。

防潮堤

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数カ月ぶりで七ヶ浜菖蒲田海岸に行ってきた。
ホントは「蔵」にラーメン食べに行ったんだけど定休日だったのね(笑^^;)
思わずお店の前スルーして七ヶ浜町へ。

P6174307かつて、松林に囲まれて典型的な日本の海、日本の海水浴場だった“菖蒲田浜”
震災以降、しばらく手付かずのままだったこの海岸も防潮堤の工事が進み、在りし日の面影を思い出すのさえ難しい。

今、宮城県の海岸全域で防潮堤の建設が進められている。
コンクリート製のもの。
瓦礫を土台に盛土した“土塁”を設け、植林を施すもの。

漁村だった町や村も海岸と住宅地を隔てるように…海の様子が全く判らないような壁を築くところもあるようだ。

なんかさ、物理的鎖国をしてるような感じだ。
進撃の巨人の城壁のようでもある。

答えは出ないけど、ホントにそれでいいのか?…って。

岩手の田老町だって10mの防潮堤で守られていたのにあの被害。
なんぼのもの築いたってダメなもんはダメなんでないの…。
それよりも安全に避難できるルートの確保や高台・避難場所の整備をした方がいいと思う。
一時避難のためのシェルターとかノアの箱舟みたいなもんとか(^^;)
被害を防げない“かもしれない”防潮堤に何十億何百億って掛けるより“絶対命が助かる方法”を優先で考えた方が現実的だと思う。

浜でこの風景を見ていると、かつての景観が失われていく悲しさと同時に虚しさがこみ上げてきた。


かさ上げの浜街道

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top1浜街道のかさ上げ工事がいよいよ始まる。
昨日、県道塩釜亘理線をかさ上げする東部復興道路整備事業の起工式があった。
塩釜から亘理まで海岸線沿いを走る県道10号線、通称 “浜街道”
我が家から相馬に行くには4号バイパスの渋滞回避して、この道を通って南下した方が断然早い。
閖上に行くのも仙台空港に行くのもこの道だ。
その浜街道の東側(海側)直ぐに高さ6m盛土幅30〜40mの堤防を兼ねた道路が新設される。

津波は当然この道をも飲み込んだ。
震災直後の自衛隊ヘリからの映像ではこの道を津波に追われながら逃げる車両のリアルな映像が映し出されていた。交差する道路は限られ、場所によっては田んぼの畦道を走るしかない。
今では一面の荒野になってしまったこの沿道の災害復旧のためのダンプや工事車両が頻繁に通っている。

“あの”規模の津波が来たら防げるのだろうか?
この道路の西側にはかさ上げの東部道路(高速道路)がある。
先の津波はここで止まった。
要するに東部道路の海側に津波で流されたありとあらゆるものが瓦礫として堆積した。

2重の防御…。
いくら金を掛けてもその都度自然の猛威はそれをも上回る。
無駄ガネとはいいたくないが、せめてその力に上がらう効果を期待したい。



浜街道荒浜交差点の北側に「狐塚」という塚がある。今でも松の木が数本立ち、祠が残っている場所だ。
現在の県道10号線はこの狐塚を迂回するように大きく西側に避けて通っている。
岩沼にある竹駒神社と塩竈神社を行き来する狐様の休憩所として崇められてきました。この地に道路を造る際にも、昔からある祠を取壊わさないようにして道路が造られました。地震による津波の際、周りの建物が流されてしまっているなか、なぜかこの地域の建物は一切被害を受けませんでした。
という話がある。
新しくかさ上げされる復興道路の建設予定地はこの狐塚を埋め立てる形で建設される。

さぁ、どうしたもんか…
「タタリじゃ〜!」と地元のばーさんが騒ぎ立てるのだろうか。
津波の被害を未来に語り継ぐために昔の人々が建てた石碑の意味に習うのであれば、この塚はそのままにしておいた方がいいような気もするのだが・・・

いささかゲゲゲの鬼太郎談になってしまったか…(^^;)



3年目の3.11

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写真 2014-03-11 14 32 23東日本大震災から3回目の午後2時46分はせんだいメディアテークで迎えた。
【ケータイで撮った「3.11」はありませんか】のイベントに顔出して、自身で撮りためてた震災関連の写真データを提供してきた。

イベントをやっていたせいもあるのだろうか、結構多くの人がメディアテークに集まって、その時を迎えていた。
個人的に印象に思ったのは、訪れていた人たちがそんなに暗い顔をしていなかったこと。
もちろん馬鹿笑いはしてはいないが、震災という暗い過去を背負ってるイメージはなかった。
3年経って表面的にはなんとなく吹っ切れてきた…って感じだろうか。

震災写真のアーカイブも2011年の初夏辺りから始めたせいか、その時からいろいろ関わってきた部員達(笑)とも今ではすっかり打ち解けた話もできるようになった。
震災によって新たに繋いでもらった大切な関係ですな♪

何か昨日までは気分的にも神妙な雰囲気だったけど、“節目を超えた”せいもあってか少しは気分が楽♪
TVの特番も落ち着くだろうしねw

ってことで、また新たな1年、頑張りましょうーp(^_^)q


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東日本大震災からまもなく3年。
あの日が近づいてくるとやっぱ心が落ち着かない。

そういえばあの日は電気・通信の不通によって「烏合の衆」にとっては空白の日になってしまったわけで、その日の様子は日記してなかったことに今更気づく(^^;)


2011年3月11日 午後2時46分。
僕は仙台駅前の住友生命仙台ビルにいた。
1月から3ヶ月のカリキュラムで行われるWebスクールに通っていた。教室があったのがそのビルの13階。
同じスクールで仲良くなった友達と昼ご飯を食べ、午後の授業を受けていた。

「揺れ?・・・またか…」
“またか…”と書いたのは、その数日前にも震度4クラスの地震が数回あって、「ここ最近地震多いな…」的な感じがあったからだ。
しかし、その初期の揺れがなんとなく予感させた。
「これまたちょっと大きめな揺れかも…」
予想通り揺れはそこそこ大きくなったけどその時は直ぐに収束する…と思っていた。

…が。
揺れはどんどん激しくなり、これまで経験したことのない揺れ方になった。
目の前にあるノートパソコンを閉じ、脇に立っていたパーテーションを押さえる。女の子からは悲鳴が上がる。
窓の外を見ると、ほぼ同じ高さの隣のホテルも大きく横に揺れている。
揺れの中でビルが大きく歪んでいるのがはっきり判る。
「ヤバい!宮城県沖地震がきたっ!」
瞬間思ったのは、先月(2月)に起こったニュージーランドの地震。
ビルが崩壊して日本からの専門学校生が大勢下敷きになった。
「このビルも崩壊する!」
天井が落ちてくるんじゃないか。足元が崩れるんじゃないか。
そんな不安の中、揺れに耐えていると徐々に収まってきた。

峠を超えた…と思ったのも束の間、立て続けに大きな揺れが再びぶり返す。
「止まれー!もう止まってくれ!」誰かが叫ぶ。
照明が消える。非常ベルが鳴る。
ただただ物に掴まって揺れを凌ぐことだけしかできない。

収まりかけた2回目の揺れに引き続きまたもや3回目の大きな揺れ。
既に中学校3年の時に経験したM7.4の宮城県沖地震の揺れをはるかに駕ぎ、阪神淡路大震災の被害よりも壊滅的な惨状であろう仙台市街を瞬時に想像する。

揺れが収まった。長かった。本当に長かった。体感的には5分も揺れていただろうか。
地震の規模も当然並じゃない揺れだったが、あんな大きな揺れが3回も続くとは尋常な地震じゃない。
ビルが崩壊してくれなかったことに安堵するものの、とにかく避難。外に出ないといつまた大きな余震が来るかわからない。

自分の荷物をまとめ教室だった部屋の最寄りの避難階段を使ってビル外へ。
緑の非常灯だけが点く薄暗い階段を延々と下りる。
目の前の女の子が足を踏み外すも腕を取り支える。泣いてる人もいる。

1階…そしてビルの外へ。
歩道、車道には人・人・人。物凄い人口密度だ。
目に入ってくる街並みは概ね地震前と変わらぬ様子。震災後の神戸以上を想像していただけに、意外と建物自体は無事だったことに驚いた。
と、先ずは家族はどうなった?
電話するもやはり不通。メールは? SMSは送れそうだ。
「生きてる!そっちは?オネェとサッチは?」
「大丈夫!小学校に迎えに行ってくる!オネェは友達と歩いて帰ってきてるって!」
それだけの情報が入れば先ずはOK。
それとTwitter。最低限の情報は入れとこう。
「ひろうき生きてます@仙台駅前」14:57 -2011年3月11日 送信。
良かった!Twitterも繋がる。

スクールの先生とのやりとりと落ち着いてから連絡を取り合う旨を確認して各自解散。
友達同士とも励まし合いお互い気をつけるように、何かあったら連絡するようにと念を押しながら別れ、その足で仙台駅へ向かった。
イービーンズ前階段からペデストリアンデッキに上がって周りを見渡してみた。
SS30のてっぺんのアンテナが折れてる。
エンタツパーキングの塔屋が傾いてる。
タクシープールは人の海。

咄嗟に…恐らく無意識的にiPhoneで写真を撮っていた。
スクープと言うか惨事というか、これは撮っておかないとマズい的な本能で撮っていた。

駅の2階入口では警備員が立って「危険です!通行止めです!」と叫んでいたが東口に出るのにここを通らないとエラい遠回りになるので強行突破。
確かに一部天井が崩れ、ガラスが割れ、朝見た駅の様子とは違っていた。
東口も人であふれている。完全に東西連絡通路が塞がれてしまっていた。

ロッテリアのガラスが割れて散乱している。車道は車が大渋滞。
宮城野通を家に向かって東に歩きながら、ようやっと平静になってきた。
友達や知り合いのことを案じ始め、今後の作戦も頭の中でシミュレーションする。

「正実さん、今日退院だって言ってたけど、どうなったべ? 病院出た後だったか?」
「はがっぺさんの墓、ぶっ倒れてねぇーべな?」
「ムロさんの会社のビルも高いから揺れたんでね?」
「いったいなんぼの揺れだったんだべ? 震源はどこ?」
「電気ガス水道はしばらく使えないからコールマン出してこねば」
「マンションの給水塔に入ってる水は使えっから、とりあえず確保しておくべ」
「ケータイの充電はどうする? ガソリンは満タンに近いはずだから車で充電すっか」
「食いもんは…」
「コンビニや新田スーパーは多分あてになんねーな…。」

いつの間にかぼた雪が降っている。
新寺付近のお寺の瓦が歩道に散乱。インターロックのタイルもところどころ浮き上がってる。
マンホールも突出。液状化か?
宮城野原の仙台育英の塀も崩れてる。

我が家が近くなってきた。
これまで記憶されてる近所の風景が地震によって微妙に崩壊している違和感を感じる。

「家到着!家ん中ガチャガチャ!((((;゚Д゚))))」16:31 -2011年3月11日 Twitter送信。

あっという間に辺り一面真っ白になった。
「建物から投げ出されてる人もいるって時にこの雪は酷だな…神様ひどすぎっと!」

その時は沿岸部がもっとひどい事になってるなんて思いもよらなかった。

被災地ツアー〜下見編

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P831050520世紀アーカイブ仙台インターン生による企画
「もう一度見てみよう3.11」定点観測被災地ツアー
来月行われる本番の前のデモツアーと称して事前の下見に同行してきました。
仙台市宮城野区から名取市閖上に至る津波の被害を受けた海岸線…蒲生・荒浜・閖上の地区。
いずれの地区も2年半近く経った今でも住民たちの帰還は成ってません。
2〜3ヶ月のサイクルで同じ現場を訪れたりしてるけど、微妙にどっかが変わっていくだけで、大局ではなんも(復興が)進んでないと感じます。

「夏草や兵どもが夢の跡」
かつて家屋のあった場所にはコンクリートの基礎が残るだけ。
そこで一生懸命生きてた人達の姿はそこにはありません。
あるのは熱い日差しに照りつけられぐんぐん背丈を伸ばしてる夏草だけ。

荒浜では↑のように大きな防潮堤の工事が進められてます。
コンクリートの“塀”のような防潮堤ではなく、震災瓦礫を核にその上に盛土をして植林をする。
そんな計画の下地が出来上がったようなグリーンの防潮堤。
こんな感じの“山” が宮城県の海岸にズラーッと出来上がる予定。
その景観はいかに…って感じだ。

閖上では「閖上の記憶」というプレハブの復興支援・震災アーカイブの拠点が出来上がり、語り部の方から震災の体験談・地元が抱えてる問題を聞かせて頂きました。
実体験で震災を経験した人の語りはさすがに重い。
「う〜ん…」の一言に尽きます。

今回のデモツアーでは本番さながらのシミュレーションで説明や行動をしてみました。
現役の大学生とはいえ、被災地のことをよく調べ伝え、震災の風化を防いでいこうとする姿勢に共感を覚えます。
来月の本番でも「有意義なツアーだった!」と言ってもらえるよう頑張って欲しいもんですなd(^_^o)



菖蒲田浜定点観測

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IMG_00182010.7.6 七ヶ浜町菖蒲田浜にて
防波堤を越えると、肺にいっぱいの潮の香りが流れ込んでくる。
夏休みを間近に海の家の建設が始まっていた。
クソ暑いのに大工さんたちは長袖の作業着で汗だくだ。
気の早い親子連れが裸足になって波打ち際で遊んでいた。



東日本大震災までは何年も何年も変わらない夏の風景。
そこにある海・・・
当たり前過ぎて、なんの感動もない。


【震災後定点観測】左:2011.6月 右2013.7月
菖蒲田浜定点観測3菖蒲田浜定点観測2菖蒲田浜定点観測1


ホントだったら夏休みの今はたくさんの人出で賑わう海水浴場。
当然ながら震災以降は“遊泳禁止”である。
浜はようやっと“片付け”が終わったばかり。
瓦礫や破壊された家屋が撤去され、しばらく残されていた基礎もなくなって、そこに家があった痕跡も見当たらない。
大きな防潮堤の建設が始まって埋め立てや整地が進んでいるお陰で記憶の中の景観が失われしまっているだけに遠くにある丘の上の住宅や木の形・電柱などで以前の撮影地を確認する。

どうしてもやっぱり自分の記憶とのギャップ感は否めない。
被災地の復興は始まったばかり。どんどん変わっていく景観にこれからも戸惑うはず。
せめても記録は撮り続けないと。

もう一度みてみよう3.11

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311ツアー20世紀アーカイブ仙台の企画で「もう一度見てみよう3.11」っていうツアーに参加してきた。
被災地の“震災直後”→“1〜2年後”を経て今現在の様子を定点観測しに行くツアーで、20世紀アーカイブ仙台の大学生インターンによる企画だ。
NHK仙台のキャスターさんやカメラマン&アシスタントの方も同行して、カメラ向けられながらインタビューといった “本格的”な空気感だったw


名取の閖上〜荒浜〜蒲生という比較的仙台市中心部にも近い津波の被災沿岸部の観測。
自分でも時間のある時は七ヶ浜や閖上・仙台新港付近は周ってみてはいるのだが、自分的な観測や撮影で行ってない部分など新たな視点で被災地を周ることができたのは有意義だったと思う。

一人で周ってる時は感じなかったことだけど、今回改めて人数で周った方が客観的な考え方や知らなかった知識も得られるので非常にいい経験だった。
しかも、地元に居ながら風化している自分に気づいた。

地元のTV局制作のローカル番組・ニュース、地元新聞記事。
とにかく震災後2年3ヶ月、『震災・復興』という言葉を聞かない日は1日足りともない。
自らこういう企画に参加したり、アーカイブのお手伝いをさせてもらってるにも関わらず、当時の思いや
悔しさ悲しさが薄らいで来ているのが実感された。

思うに「風化はする」と言われているけど、そのことに肩肘張って「オレは絶対忘れない」と常日頃から思ってるより、忘れそうになった、もしくはふと何かを感じた時に“被災地を思ったり感じたりする”方が、これから先長い活動ができるような気がする。
これからまだ何十年と続く復興だもの、地味な活動の方が長続きするのは当然だ。

今日聞いた話の中で、津波被災した直後はどうしても元の場所に戻って来たいと思ってる人がほとんどだったのに、時間が経つにつれ戻って来たい人の率は低くなってるそうな。
ある意味それも“風化”なのだろうか。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
平穏な日々が続くと、もうこれ以上あんまり面倒なことはしたくない、動きたくない…てのが本音なのだろうか。
そういう、諸々な考えを新たにさせてくれる意味でもこのツアーは成果があったと思う。

それにしてもインターン生たちはよく調べたね。
地元のじーさんばーさんから語られるような話だったり、震災後の生活はどんなことしてるとか、かなりの取材や調査をしたんだろうな…って。
これまで知らなかった話も随分あって、ホント関心だったわ。

写真 2013-06-15 22 28 12
今日のツアーでの最大の成果。
くまモンの名刺(爆)
熊本からこのツアーに参加して頂いた方と名刺交換しましたら、なんと“くまモン”の名刺!
留まるところを知らんなぁー♪

むすび丸係長もどんどん県外進出しねーどd(^_^o)

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今手がけている仕事の一つに「震災メモリアルパーク」の整備事業ってのがある。
まだ計画段階なので場所とか詳細は明かせないが、津波でほとんど壊滅的だった地域。

震災前そこにあった公園をベースに津波で失われる以前の街並みの様子や津波の遡上地点、震災遺構の展示など“現物”によるビジュアルな展開がメインになる。
実際の展示や表示内容はプロデュースする会社の提案次第であるが、やはり…というか地元住民の意見に寄るところが大きく、その中身がなかなか決まらないのだそうだ。
聞こえては来ないがメモリアルパークそのものに関しても意見が割れているのではないか。
いろんな意味で心の琴線に触れる話しであるだけになかなか難しいものだ。

オラは被災した地域にはこの手の記録をアーカイブし展示する施設は必要だと思う。
震災の記憶は風化するものだという。
だったら保存に着手するのは、遺構や遺品、瓦礫の一部が残ってる今しかない。
広島の原爆ドームも当時は残す残さないで相当な議論になった。
結果、戦争のない平和の象徴としてのメモリアルとしてしっかりとその一役を担ってる。

その土地ところにいろんな伝統や文化があるように被災した地域にも個性があって、今後はそれを末永く伝承していくのも今を生きる人々の努め。
大小は関わらず、各地域にそのようなメモリアルパークが整備されるといいと思う。

太っちょ焼きそばの里は今

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42福島県浪江町である。
震災から2年以上たった今でも全町民が避難している町。
浪江町の依頼があって昨日からGoogleのストリートビューが公開された。

人っこ一人いない・・・
ゴーストタウンだわ。

ストリートビューで町を歩いてみると所々に地震で崩れた家屋や塀が手付かずのまま残っていて、住宅の敷地周りには雑草が覆い茂り飛ばされてきたゴミの吹き溜まりになっている。

浪江の名物「太っちょ焼きそば」って食ったことあるすか?
オラ的には生涯で食った焼きそばの中ではダントツ1位の美味さ!
お世辞抜き、マジで美味い!

B-1グランプリであっちこっちの焼きそばが上位にランクされてたりするけど、浪江の太っちょ焼きそばの前にはぜんぜん足元にも及ばないわ!
太っちょ焼きそば…って名前の通り麺が極太。
麺の歯ごたえバッチシ風味もガッツリ!
ソースの絡みもサイコー♪

この町でこの焼きそばが復活する時はあるんだろうか・・・
町の様子があまりにも衝撃的なせいか、そこから先の想像ができない。

♪福島に帰ったら、浪江の焼きそば食べる。

「予定〜福島に帰ったら〜」に浪江の焼きそばのフレーズ入れてくれw

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